「青春を山に賭けて」番外編・・・・植村直己の名言集

植村直己が僕に残してくれた言葉

青春を山に賭けてより

若いころの登山と人生の師匠

どんな小さな登山でも、自分で計画し、準備し、ひとりで行動する。これこそ本当に満足の行く登山ではないかと思ったのだ。

人の目につくような登山より、このエーデルワイスのように誰にも気づかれず、自然の冒険を自分のものとして登山をする。これこそ単独で登っている自分があこがれていたものではないかと思った。

ひとつのものが終わると、またつぎの新しいものがはじまる。私の気持ちはいつも新鮮だ。

自分で危険に直面せず、他人に言われただけで中止するとはまったくいい訳にもならない。

人の意見も、とうぜん重視しなければならないが、その意見にしたがってばかりいては何もできない。人にいわれてやめるのではなく、自分で実際に直面して肌で感じとり、それでできないと思ったらやめ、できると思ったらやるべきではないか。

過去ばかりあれこれ思い出して、センチになっているわけには行かない。自分は現在に、未来に生きなければならないのだ。

こうして一つの目標に向かってすべてを傾けるのはすばらしい事だ。

自分の力で切りぬけられるときは、祈るよりも立ち向かうべきことを学んだ。

『百里の道は九十九里をもって半分とする』

山登りはたとえどんな山であろうと、自分で計画し、準備し、自分の足で登山する。その過程が苦しければ苦しいだけ、それを克服して登りきった喜びは大きい。

あとがき

私の尊敬する(3人)人の一人です。

私の人生の道標になった事は、間違いない事実である。

そして、この「青春を山に賭けて」は私の人生の聖書です。

何回、何十回と読んでいる。特に若い時に・・・・

今でも、時々読むことがある。

そんな素晴らしい本です。

30代の挑戦、20代の挑戦と書いてきました。

さて、次は、少し前の40歳からの挑戦を、明日からアップしてゆきます。

お楽しみに。

  

ついに、頂上アタック!

頂上にアタック!

アタックの準備をしている内にガス(霧)が立ちこめて来た、その上、風までも強くなっ来た。
とりあえずアタック中止にする。次の日も天候は一向に回復しそうにない。
2、3日たっても良くならない。5日目に少し天気は良くなり、アタックしたが、何も見えず、引き返す。
食料は長期戦を考え3日目から、1日1食にした。
アタック隊には、体力をつけさせる為、1日3食ちゃんと食べさせなければならない。
ここでは、もう全員登頂は、あきらめていた。
6日目には、限界に近くなり、空腹でしゃべるにのもいやになるくらいだ。
日本に帰ったら、寿司やうどんを腹いっぱい食べようと、そんな食べ物の話しか出ない。
 7日目、少し天気は悪いが、最後のアタックに、賀集、上山、北野の先輩3人が出る。
祈るような気持ちで送り出す、かなりのラッセルをしながら進むが、頂上直下200メートル所で、なだれの危険があるため断念。
隊長の素晴らしい判断であった。
アタックキャンプからは、なだれを恐れながら、C2へ、ここで一泊し、次の日、C1を撤収し一気にベースキャンプへ下る。
振り返ると、フォーレーカーの頂きだけレンズ雲をかぶったままだ。
女神は我々に微笑んでくれなかった。残念!
 ドンシェルダンと連絡をとり、またカヒルトナ氷河を、二日かけて歩いて帰った。
ルートはわかっているので、行きより速く着いた。まもなく、セスナ機が迎えに来た。
ドンシェルダンが、両手いっぱいに、スキムミルクをくれた。
この素晴らしい山々を、もう少し見ていたかったけれども、立ち去らなければならなかった。
もうみんな疲れているのか一言もしゃべらなかった。
 タルキートナーでは、キングサーモンを釣ったり、食べたりした。
その後、子供達やシェルドンと別れを告げ、一直線に、アンカレッジに向けひた走った。
こうして二十日あまりのMt.フォーレーカー遠征は、終わった。

 初めての海外、今までの人生の中で、一番のインパクトであった。
それは若かったからであろう。
広い大地を見て、日本に帰ったら、なんて狭くて、人が多いのだろうと思った。
二十日間といえ大自然の中にいると、心まで広くなったような気がした。
こ遠征が、少なくとも、自分の人生の大きな大きな一歩であったと思う。

 

ガスに中をアタックに向かう賀集、土山、北野隊員      

アタックキャンプへ向かう途中で(右端が著者)

あとがき

全財産、全体力、仕事もなくなる事も、彼女と別れる事も・・・・・そして命をも賭けて、挑んだ海外遠征。

若かったからこそ出来たかもしれない。

これほど、熱くなれたのは、いったい何がそうさせたのだろ?

よきにつけ、悪きにつけ、今の自分を築き上げているのだと思う。

過去の栄光にとらわれたり、思い出に耽るより、今を生き、明日に思いをはせて、これからも、情熱とチャレンジ精神だけは、失わないよう生きて行こうと思う。

あの日の自分に「感動!感謝!」

  

いよいよ登山開始

登山開始

まずは、C1(キャンプ1)を作るためのボッカ(荷物運び)で40キロ以上の荷物を、背負いC1を何回も往復する。
C1までは氷河と岩稜で、比較的楽なルートである。
一日でC1建設完了。C2の建設に入るが、ここからのルートは、厳しい氷壁が続く。
氷の壁はブルーアイスと言い、氷がラムネの玉のよなきれいな水色をしている。
最初は、ブルーアイス、ブルーアイスと騒いでいたが、だんだん傾斜が増し、それどころでなくなる。
氷壁の中で1時間以上待たされると、足は痺れるし、肩に荷物は食い込むし、おまけに凄く寒い。
3日かけてC2建設。C1~C2への荷揚げも完了。
 近くの沢で、なだれが起こる。何キロか離れているこちらの尾根まで、風圧がやってくる。その凄さに、みんなビビる。
なだれにあったらいちころだ。C2は懸垂氷河の下なので、安全だ。
C2から上は、最後のアタックキャンプになる。
 全員登頂をめざし、3日分の食料を持ち、C2を後にする。
ここから上は、なだれの出そうな所で、なだれを起こさないように、ゆっくり登る。二つの大きな岩の裏側にアタックキャンプを張る。
アタックキャンプは小さくて、横になれるほどのスペースはない。
ここからは目指すフォーレーカーの頂上、マッキンリー、カヒルトナ氷河、ベースキャンプまで見える大パノラマだ。
さあ明日は、アタックだ。
いやがおうにも気持ちは高まってくる。

C1建設とC1への荷揚げ
 

 ブルーアイスを登る

  

氷河の彼方へ

カヒルトナ氷河へ

天候も回復し、いよいよ出発である。セスナに、先輩達が先に乗り、一番最後に乗った。
私は、シェルドンの横すなわち副操縦席に乗る事になる。
目の前に、操縦桿が正式なものと同じように並んでいる。
ブルブルと機体を震わせながら、8人を乗せたセスナは、何とか飛び上がる。
上空で機体が安定した所で、シェルドンが両手を離し、『どうだ操縦してみないか?』と言ったので(英語が判ったわけでなく、ゼェスチャ-で判った)操縦桿を握り、まずは引き上げると、機体は上昇、押すと降下、右に回すと右旋回、左に回すと左旋回、意外と簡単だ。シェルドンは『ベリーグー』と言いながら、しっかりポイントは押さえていた。
眼下には、カリブー(大鹿)の群れが走っている。
大きな山脈を越えると、正面にマッキンリー(6191m)、その左側に、Mt.フォーレーカー(5303m)がそびえていた。
セスナはゆっくりとしたスピードで、山と山の間を降下し、カヒルトナ氷河の端っこに我々を降ろすと、あっという間に飛び去って行った。急に静寂がおとずれる。
 6人は、しばらくの間、この大パノラマに見惚れ、声出すのを忘れていた。Mt.ハンター、Mt.ハンティングトンなど4000~5000m級の山々が、身近に迫ってくる感じだ。
小1時間、首がだるくなるほど、見上げた後でテントを張る。
アラスカは白夜なので、日が暮れるのが夜中の12時を過ぎる。
夜と言っても黄昏程度に暗くなるくらいで、2時間もするとまた日が昇る。
夜がなく、オーバーワーク気味なってしまう。

Mt.マッキンリー(左)とMt.ハンター(右)

クレバスの彼方ベースキャンプ設営

次の日から、ベースキャンプまで、カヒルトナ氷河を歩くことになる。
氷河には、クレバスが、大きな口をあけ待っている為、右左にクレバスを避けながら行くので、大変時間がかかる。
クレバスでも、ヒドンクレバスと言い、表面に雪が被さっていて隠れているものが、一番危ない。
一度落ちてしまった。
あっという間の出来事で、何とか両手とザックが、引っかかり止まるには止まったが、足の下は、何百メートルもある奈落の底である。
幸いにも全員がザイルで結ばれていたので、大丈夫だったが、恐る恐る進むことになる。
 歩いても歩いても、同じ風景が続く、それほど広く長い。
一日16時間以上歩いても、二日間は十分かかり、やっとMt.フォーレーカーの裾野にベースキャンプを張ることが出来た。
 ベースキャンプから見るフォーレーカーは裾野が長くきれいな山である。目指す東南稜は、なかなか手ごわさそうである。その日の内に、シェルドンが食料などの荷物を投下してくれた。
半径百メートル以内に見事に落とす。一人で・・・・足も悪いのに、凄い腕前とつくづく感じる。
いよいよ登山活動開始である。

Mt.フォーレーカーをバックに全員で

いよいよ次はクライマックスのアタック開始です。

乞うご期待を!  

ここは日本じゃない!

タルキートナーにて

次の日はタルキートナーに着き、夕食はドライブインに行った。
メニューは当たり前の事なのだけれど全て英語、さっぱりわからなかったが、さすがロイヤルホテルのコックさんの安さんが食べれそうなものを教えてくれた。
ハム&ツーエッグを頼んだ。ハムはステーキぐらいの厚さがあり、美味しかった。
 タルキートナーでは、プッシュパイロットの名手ドン・シェルダンにフライトの依頼をしていた。
シェルドンは片足が悪いけれど、アラスカきってのプッシュパイロットで、植村直己も彼に依頼した事がある。腕はかなりのものだと聞いている。

 すぐにでも、氷河に入りたかったけれども、天気が悪く、フライトできないので、天気待ちとなった。
ぶらぶらしていると近所の子供達が集まってきて、ベースボールをやろうと言うことで、日米決戦をした。
結果は日本の大勝利。
米国チームは、負けたのがしゃくだったのか、今度はバックネット登りをしよう。『お前たちはクライマーだから速いだろう」と、これは、すばしこい米国の勝ち。
日本語と米語、それぞれ教わったり、教えたりした。
子供なら「ワンスモアー」と解らなければ何度も聞くことが出来た。
誰かが、『馬鹿』『アホ』や、あげくの果てには、『チンポ』『マンコ』と教えたものだから、その辺を御下劣な言葉を、連呼して大騒ぎであった。
そうしながら白夜は暮れていった。

ベースキャンプから望むMt.フォレーカー

次回は、ついに世界最大の氷河・・・カヒルトナ氷河に降り立ちます。

お楽しみに。

  

ついに来た!憧れのアメリカ・アラスカ

初めての海外遠征

1973年7月、いよいよアラスカに出発だった。会社には、一ヶ月の休職届を出し、もしもの事を考え2000万円の保険に入り、彼女には、生きて帰れるかどうかわからないと・・・・・
山への不安も抱きながら、初めての海外に旅立って行くのであった。
 羽田から、飛行機で8時間ほど飛びつづけ、閑散としたアンカレッジ空港に着いた。
季節は、日本の秋に似てさわやかな気候である。空港で7~8人乗りのステーションワゴンを、レンタルし、近くのキャンプ場を探し、とりあえずテントを張り、町に出る。
一ヶ月分の食料を購入し、次はXXXXと書かれたポルノショップでノーカットのビデオを見、H本数冊購入した。これが後で、困ったことになった。
キャンプ場は外人ばかりで、当たり前のことだけれど、まじかで見る外人はえらい恐ろしくでかい。

タルキートナーにて、プッシュパイロットのシェルダンと仲間たち(左後方が著者)

一路タルキートナーへ

今回の遠征メンバーは、山口隊長、賀集、上山両リーダーと北野さん、安さん、私の6名である。次の日、ガソリンを満タンにして、タルキートナーに向けて出発した。
左ハンドル右側通行に、最初は交差点などで戸惑ったが、不思議なものですぐに慣れてきた。
アンカレッジからタルキートナーまでは、二日がかりである。行けど行けど、原野が続く。道は4車線ぐらい広く、直線の先が陽炎で見えないくらいだ。
時速100マイルおよそ150Kmぐらいのスピードを出しても、スピード感は全然感じない。
国際免許証は、上山先輩と私の二人だけれども、全員が、かわるがわる運転した。
日本の免許証も持っていない人も運転したが、別にどうってことはなかった。
 途中、ヒッチハイクのアメリカ娘が、乗ってきたけれど、後の荷物の中から、ポルノ雑誌が、座席に落ちてきたので、30分ぐらいで降りてしまった。残念!

 今日は、丁度半分くらいのところで、キャンプをする事にした。川の近くにテントを張り、食事の準備をしていると、何やらわめきながら、一人の白人が近づいてきた。
凄い剣幕で、しゃべくりまくるが、何を言っているのかさっぱりわからない。
やたらフィッシングだのキャンピングだのの言葉が出てくる。
よく見ると腰のあたりに、銃を差している。それも裸の銃で、『ありゃ-本物だー』とみんな超びびり、動くことも出来ない。
よく話を聞くと、どうも森林警備隊みたいで、ここはキャンプ場ではないので、ノーフィッシング、ノーファイヤーと言っている。少し英語のできる賀集先輩が、ノーフィッシング、ノーファイヤーと必死に説明し、キャンプだけは、許してもらうことが出来た。何も知らない事といえ殺されるのではないかと思った。

次は、いよいよ登山開始です。

  

夢に向かって・・・・ただひたすらまっしぐらに!

もう~何も見えない!何も聞こえない!1点だけ見つめて突き進んだあの頃。

登山狂の詩

入会するまでは、知らなかったけど、この関西登高会は、関西でも、一、二を争う過酷な山岳会で、ちょくちょく死人を出していると言うことだ。
入会最初のミーティングでも、この話が、議題であった。しまったと思ったけれど後の祭、もう後には下がれない。
 毎週土曜日の夜は、大きなザックを背負い、寮を出て行き、日曜日の夜帰ってくる生活パターンになっていた。
こうしてだんだん深みにはまって行くことになる。
 十二月は、厳冬期の富士山へ、つるつるの氷の斜面を滑落し、死に目に会ったり、冬合宿は、後鎌尾根から西穂高岳~前穂高岳までの厳しい稜線を縦走し、三月は、剣岳、五月には前穂高岳のAフェース~Dフェースを登り、充実した山行をして行き、着実にロッククライミングや冬山登山のテクニックを身に付けていった。
 そして三年目、ついに憧れの海外遠征へのチャンスが訪れる。アラスカMt.フォーレ-カーへの遠征である。
Mt.フォーレーカは、Mt.マッキンリーに続くアラスカ第二の山で、標高は、五千メートル。ターゲットは、東南稜で、日本人初登頂になる。
 一年前に、計画があり、どうしても行きたいため、涙ぐましい努力が始まった。
まずは、資金作りであった。特に食料を押さえるため、寮の食費はカットし、その分合宿で余った乾燥米、ラーメンなどで出来るだけ、押さえる努力をした。
でも、それも一ヶ月とはもたなかったが、出来るだけぎりぎりの生活をし、行くまでに二百万近い資金を貯める事が出来た。
体力的にも冬は、毛布一枚で寝たり、寝袋で、ベランダに寝たり、半パン半シャツでランニングをし鍛えた。
こんな事を寮でやったものだから、寮母から「あなたは気違いだ」と馬鹿にされたが、その時は、アラスカの山しか頭になく、思いたければ思えと相手にしなかった。


西鎌尾根から剣岳を望む

いよいよ、次回は、初めての海外遠征です。
ご期待を  

どうして山にハマったのか?

「どうして山に登るの?」・・・・・「そこに山があるから」
19歳から始めた登山、まさしく青春そのものだった。
今でも、ライフサイクルの一つとして登り続けている。
その原点を綴った国王版「青春を山に賭けて」(尊敬する故植村直己氏のぱくりです)楽しんでください。

青春を山に賭けて

青春を山に賭けて(植村直己著)

一冊の本が、人生を、変えることがある。その本とは、植村直己の「青春を山に賭けて」である。
この本を手にして読むうちに、山登りはしたことはなかったけれど、すごく勇気とファイトが湧いてくるような気がした。

山登りにのめり込む

 そんな時、会社の徳増先輩が、ハイキングに誘ってくれた。
それは、赤目四十八滝巡りであったけど、田舎育ちのせいか凄く嬉しくて、母親の懐にいるような安らぎをおぼえた。
聞く所によると会社に、山岳部があるとの事、これだと思いすぐ入部した。
 秋からは先輩達と、ハイキングによく行った。そして、六甲さんでロッククライミングを、経験した。
それは、凄いインパクトですぐに虜になっていった。
 その年の冬は、岩登りや近くの山に、積雪登山にもよく出かけた。スキーにも何回か行った。
三月には、八方尾根にスキー&登山も行き、雪上にテントを張り、冬山の気分を味わった。
五月には、本格的な雪山登山を、憧れの立山で経験した。ピッケル、アイゼンなどを使い雄山に登山した。
夏には、岩登りに懲り、毎週日曜日に行っていたけれど、ついに、六甲山にテントを張り、そこから通勤するようになった。
パートナーは、同僚の伊中君であった。
しかし、一週間ほど経ったある日、どうも、幽霊らしい声に出会い、恐ろしくなり、逃げてしまった。

小豆島親指岳にてロッククライミンクを楽しむ。

山学会に入会

 また、冬がやってき、関西山岳連盟主催の冬山登山講習会が、御嶽山で実施され参加した。
大変なパワーでラッセルしたのがよかったので、有名な山岳会紫学会のリーダーの方から入会しないかと言われ、有頂天になった。が後でよくよく考えてみれば、単なるおだてだった様な気もする。
 それを機に、自信を持ち山岳会への入会を真剣に考えるようになった。
会社の先輩に、関西登高会の人がいて、入る気があれば、一度参加してみたらと、それではと思い参加したのは、夏の暑い日のことであった。
一応それなりの格好はして行ったのだが、いきなりザックの中に石を入れられスタート。体験入会なのにいきなりボッカとは・・・結果は、いわずと知れた事、バテバテで食べ物も喉を通らないくらいだった。
その日は、何となく終わり、こんなしんどいなんて、絶対にいやだ-と思ってはみたが、ばてた自分が情けなかった。
異様なくらいに疲れたが、凄い充実感を味わい、インパクトを感じた。二、三日考えたあげく、ここで逃げたら一生逃げるような人生を、送るような気がして、思いきって入会する。 

そこから、怒涛の山登りが始まりました。

次回へつづく。お楽しみに!