バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・番外編の番外編

桜島のよく見える絶景場所が、プラグポイントよりそんなに遠くないところにあります。

とっておきのいいところ

プラグポイントからR504を、北に25Km(約20分)輝北町市成の町の中央当たりを左折(天球館の看板が出ている)急な坂を登ると台地に出る。左右牧場を見ながら行くと正面に奇妙な建物を発見するそれが天文台だ。
この地はきれいな星空日本一になったこともある。
この中にある65cm反射望遠鏡は、月面のクレーターはもちろんのことオリオン座大星雲M42までもくっきりはっきり見える。星空を見ながら遠い宇宙に想いをはせるもよし、恋人と愛を語るもよし、宇宙ことが色々勉強になる。
他に、レストラン、グラススキー、アスレチック、バンガローもある。
裏から見る桜島の一番きれいなのはなんといっても、夕方から夜にかけての景観は感動ものだ。

輝北天球館 

上場公園から見る桜島

天球館から、さらに北へ2Km林道を走ると、狐ヶ丘にでる。ここは狐がよく出てくるのでこんな名前がついた。
元牧場で、どこを走ってもOK!特にヒルクライム、ダウンヒルが、面白い。初心者から上級者まで、楽しめる。
やったことのない人は、頂上でゆっくり風に吹かれて桜島を眺めれは最高。
夏場は草が茂っているので、ルートチェックは十分されたし、秋から冬は猟があるので、自分の存在をアピールしておかなければ、大変なことになる。
桜島をに見ながら一日楽しく遊べる。


 
頂上から桜島を望む。

ヒルクライムは三つ丘がある。

あとがき

懐かしいTS-200Rです。軽くてエンジンがよく回るバイクでした。  

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・番外編 2

天国からの手紙

その2

帰りは、佐多岬の駐車場が、やたら空いて入ると思いながら帰ると、発券売り場から、車は、ストップ!バスがピストン輸送をしている。
もう少し遅れていたら、私達も、乗る羽目になっていた。でもバイクは関係なし、「こんなときバイクはいいね-」と話しながら、佐多街道(正しくは国道269)を、桜島に向けて走った。

   佐多岬の駐車場にて          

桜島の展望台は、車でごった返して、バイクはほとんど見なかった。桜島は、最近爆発することも少なくなった。早々に、桜島を後にし帰途につく。


 
      桜島を背にして

直毅君が亡くなって、10年が経ち。最初の一年は、信じられなくて、悲しみ、嘆くばかり、その上、いろんな事を恨んだそうです。
運転していた方(亡くなられた)、カーブした道路『どうして曲がっているのか』 ぶつかった橋の欄干『どうしてこんな所にあるのか』乗っていた車『欠陥車じゃないのか』など、今では、考えれれないようなことがあったそうです。
今は、そんな事はもうないそうですが。バイクや部屋はそのままにしているそうです。

それより驚いたことは、亡くなってから、直毅君の友達や先輩が、墓参りや年忌に来られるのはもとより、彼女が出来たと紹介してくれたり、同窓会に誘ってくれたり、挙句の果てには、結婚式に招待された上、来賓の挨拶までしたそうです。
まるで直毅君の、代りをしている見たいに・・・・・・・。

本当に素晴らしい出会いと、経験をさせてもらっていると、直毅君に感謝していると言うことでした。
もし亡くなっていなかったらこんなことは、なかったでしょうと。22歳と短かったけど、一番いいところを、最高の生き方をしたので、これで良かったのではなかろうかと。親として何もしてやれなく、何も理解できなかったけど、いろいろの事を、考えられさせられ、教えられたそうです。

 直毅君のことは、ライフスタイルの一部として、ずーと思い続けて行かれるそうです。
友達や先輩はもとより、直毅君がかかわったすべての人、物そして場所と関わり合って行きたいそうです。
直毅君が、走りまわった北海道にも、バイクは無理でも四輪駆動車で、走ってみられるそうです。

こうして、プラグポイントに来られたのも、何か強い因縁を感じます。もしあの前日、切手を貼って出していたら、私は、読んで夏まで、待ち・・・・「ああ-来なかったんだ-」とただ思っただけでしょう。
これだけで終わっていたでしょう。
こうして、素晴らしい人にめぐり合えた事を、直毅君に感謝しなければなりません。

 こんな素晴らしい親子ってあるでしょうか?
 本当に、いまでも生きている。確実に生きている。
 それは、お父さんの心の中に、お母さんの中に、お兄さんの中に、先輩の中に、友達の中に、プラグポイントに、そして私の中に・・・・・・・・ずーと永久に。

同じ年頃の子を持つ親として、本当に考えさせられる有意義な一日でした。
野村さんも「いい供養が出来ました」とおっしゃって下さいまして、ほっとしました。来ていただいて良かった。この次は、私が静岡に行くことを約束しました。
5月3日は建国祭で、お祝いまで頂きありがとうございました。

あとがき

何度読んでも、その時の光景が目に浮かび、涙がこぼれてきます。

野村さん・・・まだ、 直毅君の墓参りに伺えてなくて、すみません。近々、必ず伺います。
それまで、元気でいてください。 
(2013年1月記)

後記

長い間、「バイク王国プラグポイント創世の記録」を、読んでいただきありがとうございました。

これからも、ライダーや地域と共にやってゆく所存です。

皆さんのご来国をお待ちしています。

ライダー以外の方でも、ご利用できますので、ご連絡ください。

引き続き、新しいシリーズを連載していきたいと思っています。

乞うご期待ください。

バイク王国 プラグポイント 国王  

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・番外編 1

これは、プラグポイントの歴史の中で、一番心に残る出来事です。
このことは、本編「バイク王国プラグポイント創世の記録 2 」に載せていますが、その続きです。

天国からの手紙Ⅱ

その1

 

1999年4月、突然、静岡の野村さんから電話頂いた。
ライダーハウスへ行きたいとの電話だった。家内が電話を取ったものだから、最初は、お兄さんがらだとてっきり思っていた。

お兄さんは1989年10月12日に一度来られたことがある。その時、今度来るときは、バイクで来たいとおっしゃっていた。二回目の電話で、お兄さんじゃなくて、お父さんだと知った。5月2から4日まで滞在されると言うことで、会社に休日を、お願いした。

 5月2日、名古屋から飛行機で、鹿来された。その夜は、温泉に入ってもらい、ぬっくりと、していただいた。
(ここで、もし、天国の手紙を、読んでない方は、こちらをクリックして下さい)

 さて、次の日、直毅君が、もし、プラグポイントに来ていたら、必ず行ったであろう、佐多岬へ案内した。
おりしも、コールデンウィークの真っ只中、佐多岬を目指すライダー達で、佐多街道は溢れていた。
道路も十年前比べれば、大変良くなっている。
特に伊座敷から先の峠は、カーブも少なく、道幅もかなり広くなっている。右手の鹿児島湾の向こうには、薩摩富士こと開聞岳が、綺麗に見えている。

 車は、大泊から、有料道路に入る。ここからは、左右に亜熱帯植物が覆い茂る中を走る。岬の駐車場は、いっぱいで路上駐車となる。
こんなときは、バイクはいい、一番奥に停められる。
ここからは、ライダーもドライバーも、みんな歩きだ。15分ぐらいで展望台に着く。
天気がいいので、最高だった。海は綺麗だし、視界は良好、本土最南端に来たという感じがする。展望台で発見したもの・・・・・それは、落書きでした。普通落書きは、見苦しいもの、特に観光地では・・・・・・と言う概念はあるけど、もう何回も来ているのにじっくり見たのは初めて、それは、野村さんが、静岡の人の書いたものを見つけてからだった。

日本縦断のライダー、チャリダ-、徒歩ダーの達成の喜びから、転んで怪我をしながら来たライダーや、失恋し感傷旅行のライダーや、友を亡くしたライダー等いろいろなライダーがいろいろなバイクに乗り、この最南端の岬で、感動し、物思い、何かを感じたことを、所狭しとばっかり書かれている。
二人で1時間ほど、読み耽ってしまった。
もし皆さんも行かれることがありましたら、ぜひ読んで、書いてください。
(佐多岬の展望台管理の方々ごめんなさい。)

右が野村直毅君 

佐多岬にて直毅君のお父さん

その2につづく

あとがき
文中の有料道路は、現在無料開放されています。もちろん、チャリダーもOKです。ちなみに、この落書きのある展望台は、現在取り壊し中です。
新しい展望台に「落書き板」をつくってもらえるように、南大隅町に提案してあります。
(2013年1月現在)  

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・完

いよいよ最後になりました。
長い間、ご拝読ありがとうございました。
最後に、国王のプラグポイントに対する熱い思いを綴ってあります。

ライダーハウスはペンションや民宿じゃーない 
最近よく問い合わせがある。食事付で500円ですかとか、個室はありますかとか・・・。
500円で食事が付けば、大変なことだ。個室にするほど部屋はない。問い合わせてがっかりしてこないライダーもいる。来ないならいいけど、一度入ってきて見まわし、ちょっと出かけてくるといって、二度と帰ってこないライダーもいる。

 こんな事もあった。夕方5時ごろ、二人ずれの女性ライダーがやって来た。ライダーハウスの鍵を開け、中を見まわし、やはりホテルに泊まると出ていった。そのあと1時間ぐらいして、凄くカッコイイ青年の二人組みがやって来た。もしこの女の子達が泊まっていたら楽しい夜になっていたと思う。

 ホテルであれば鍵を閉めると、もう誰にも会うこともない。テレビがあり、エアコンが効き、ベットやシャワーがあり、自分の部屋と何ら変わりがない。
プラグポイントは個室もなくザコ寝である。エアコンは天然の風だ。でも、人とのふれあいや楽しい会話や、いい情報などたくさんの体験が出来る。旅は、すべてを楽しまなければ・・・・・・。彼女達は何かひとつ大切な物を拾って行かなかったような気がする。

どうして、今、バイクなんだろう


 バイクと車の違いは何だろう。車は雨、風、暑さ、寒さをしのげる。車の中にいれば死ぬことはない。でもバイクはそのすべてをしのぎようがない。

 車は乗っているというより、運んでくれるという感じがする。やはりバイクは、乗っているという感じがする。それは五感をフルに使っているからではないだろうか。

 もう一つ大きく違う点は、バイクだからこそ、ピースサインが出来る。バイクだからこそ「どこから来たの?」「どこへ行くの?」とか、見知らぬ人と話が出来る。バイクを通して友達になれる。あまり苦労したくない。ダサい事はしたくない。トレンディやオシャレを好むこんな時代に、どうしてバイクに乗らなければならないのだろうか?

 バイクはいつも独りである。友達とツーリングしていても、走るのは独りだ。独りで走っていると、いろいろなことを思い、考えながら走るだろう。ある時は、彼女のこと、お袋や親父のこと、友達のこと、仕事のこと、バイクのこと、うれしいこと、悲しいこと、過去のことも、未来や夢も、希望もすべて包んで走ってくれる。

 苦労、無駄、カッコ悪いこと、ダサいこと、気がつかなかったこと、でもこんな中に本当の素晴らしさがある。
器やパッケージで判断するのではなく、中身(ハート)のような気がする。 宝石はそこらに転がっているわけでなく、原石を一生懸命探し、磨き上げてやっと輝き始める。バイクでの旅にもそんな想いがあるような気がする。 

 人に出会う感動、風景に出会う感動、シーンに出会う感動。さあ君も感動を探しに旅に出かけよう!さよならじゃなくて、See You Again。またいつか、どこかでかきっと会える。ピースで始まり、See You Again。終わりのないバイクの旅に出かけよう。

 ぐずぐずしないでいつもの生活から、ほんの少しだけ飛び出してみよう。きっと何かいいことがあるはず。

勇気を出して、元気を出して、さあ出かけよう!

*あとがき*
バイク王国プラグポイントを開国して10年が経ち、ひとつの区切りとして何か残るものを書き記しておきたかった。いつもライダー達と話していることをまとめてみたが、やっと書き終わったような気がする。
 出来るだけ永く、プラグポイントを続けていこうと思っている。今後も、プラグポイント物語パート2を、また出して行きたい。プラグポイントでの出来事、周辺のツーリング情報、穴場や役立つ情報をどしどし載せていこうと思っている。期待していてほしい。

九 州で唯一のライダーハウス

バイク王国プラグポイント 国王

十数年前に記したものですが、読みかえして、感慨にふけると共に、身が引き締まる思いです。

後、何年続けられるかわかりませんが、出来るだけ長く続けていこうと思います。

新しい物語はすでに、始まっています。

この物語には、終わりはありません。

私の命の続く限り。  

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・5

長くライダーハウスやっていると色々あります。
それでも続けらるのは、そこにはライダー、仲間がいるからだと思う。
今回はプラグポイントであった出来事です。
お楽しみください。
初めての方は、1~4を先に読んでください。

いろいろあるぜ人生は、泣いてたまるか!

 ライダーに悪人はいないなんてとんでもない、と思うような事件が発生。
ライダーハウスをやっていて、トラブルが一番怖い。それも警察の絡むトラブル、こいつが厄介だ。開国して1年が経った’90年7月のこと。突然警察から電話がかかってきた。
0月0日に00という者が泊まっただろうという問い合わせがあった。確かに泊まっている。 
そいつはある島で泥棒をして捕まり、プラグポイントから物品を持ち出したと余罪を吐いたということで、なにを持ち出したのか被害届を出してくれ、という連絡であった。
 丁度その時はエンデューロレースをやっていて、その賞品を20~30点ほど持ち出したみたいだ。ライダーハウスの物を盗られても大した事はないけれど、近所に泥棒に入っているのではないかと一瞬青ざめた。
 この鹿屋でやってれば、ライダーハウスはすぐ閉めようと心に決め、警察の事情聴取に行く。
幸いにも鹿屋では何も盗っていなかったので、ほっと安心はしたものも、ライダーハウスの物を盗るだけならまだ許せるが、名古屋からいっしょにツーリングしてきた仲間の財布を、抜き取った上、ライダーハウスにあったライダー達からの善意の寄付金まで、ちゃっかり抜くなんて、ライダーの風上にもおけない野郎だ。
 パスポートは抹殺と怒ったが、ライダーも人の子なんだと・・・・・・反省しきり
追い撃ちをかけるようにまた大トラブル発生!

・・・・・・人間防波堤・・・・・・・

 それはコースを造って間のない頃の事であった。鹿児島は梅雨が明けるころ、決まって大雨が降る。この年も大雨が降り続いた。
 コースは造って間がないため、地面は軟弱である。軽石混じりのシラスの土壌で、大雨になればこの軽石とシラスが土石流となって流れ出す。一応簡単な防砂堤は作っていたが、大雨に耐えられなくなると、林道を流れてしまう。林道の終点は田植えが終わったばかりの田んぼが広がっている。

 その日、見回りに行くと、土石流が凄い勢いで流れていた。田んぼに入れば大変なことになる。林道幅は1.5mで、両脇は何も作ってない畑である。これは畑に流し込むしかない。しかし、さえぎるような物は何もない。.ちょうど身の丈で何とか流れを変えられそうである。
 土石流が背中から当たるように、まさに人間防波堤を作る。流れは変わり、土石流は畑のほうへ。でもいつ大きな土石流が来るか、生きた心地はしなかった。
 1~2時間で小降りになり、朝方にはやんだ。全身ずぶ濡れの泥んこだが、何とか死なずに済んだ。大事には至らなかったが、林道脇の畑は泥でいっぱい。林道も崩れてしまった。

 朝一番、地主に土下座して謝り、会社を休んで地元ライダーや泊まっていたライダーに手伝ってもらい、ダンプやユンボを借りて土砂の取り除きや壊れた林道の補修を行った。
 こな作業は1週間かかった。国分、宮崎、鹿屋のライダーの皆さん、ツーリングライダーの皆さん、本当にありがとう!助かりました。感謝、感謝、感謝

正直言ってこのトラブルは、かなりショックだった。自分で決めてやったことは、どんな結果になろうとも後悔しないと、そんな生き方をしてきたので、悪いほうに考えず、先を見ていこうと思った。

こんな可愛い娘も来てくれました。
    

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・4

もっと楽しくをモットーに!
すでに「4」までなりましたが、まだまだ、続きます。
お楽しみください。

出会いと感動

 

ライダーハウスって何け?

開国をするとどこからともなくライダー達がやって来るようになった。
鹿屋市上祓川といえば、市内であるが超田舎である。そんな田舎に、いきなりバイクやライダーが大勢やってきたのだ。
いったい何が起こるのか?暴走族の溜まり場か、あるいは過激派のアジトか?何か悪いことでも起こるのではないかと、近所の人達が代わる代わる開国したてのプラグポイントを見に来る。
今では暴走族とライダーの違いがわかったみたいで、あまり関心を示さなくなった。
そればかりか近くの雑貨屋や酒店でいろいろなものまでいただいている様子だ。
前ほどは注目されていないけれど、大騒ぎ、エンジンの空ぶかし、もちろん火事には十分気を付けてもらっている。

 コースを作ろう

プラグポイントはツーリングライダーばかりのものでなく、地元ライダーにも楽しく利用できたらと思った。
そこで、もともとオフロードが好きなこともあり、自分たちで自由に走れるコースを作ろうと、KANOYA OFF ROAD CLUB を結成し、手作りでコース造りをはじめる。
手作りとはいっても、一応レースができるようにと、元国際A級ライダーの福島さんがコースの設計をしてくれた。
休みのたびに木の伐採、ユンボでのコース造りに精を出していると、地元のライダーたちが加勢に来てくれた。
 資金は、切った木を販売して充てたが、途中で資金がなくなってしまったので会員を募集し集まった会費で、6ヶ月後にやっと完成した。
 コースは山の地形をそのまま利用したマウンテンコースで、中級のテクニックがなければ、コースまでたどり着けない。
 出来上がったコースのオープン記念してエンデューロレースを行った。全長1,2Kmで半分は従来のコースを使用、半分は山の中を走るサバイバルコースだ。出場者は25名だったが、あいにくの雨のため、泥沼化し、それはもう大変なレースでした。
でも、終わった後は大満足。やっぱレースは最高!

  

バイク王国ポラグポイント創世の記録・・・3

昨日は、お休みさせていただきました。
さて、今回は開国当時の模様です。空前のバイクブームもあり、多くのライダー達がやってきました。
その模様です。
初めての方は1~2から先に読んでください。

ライダーハウスにやってきた変な面々パート1 

もう宿泊者は延べ5000人を超えた。振り返ってみると、いろいろな人間がやってきたものだ。 
 まず、一番多いのは学生で全体の1/3を占める。暇があり、お金がかからないからであろう。
二番目はプータロー(フリーターも含む)。
残りが会社員、OL、自営などである。職種もまたバラエティに富んでいる。
会社員、OL,のほかに、船員、自衛官、ラーメン屋さん、スチュワーデス、看護婦、ドクター、農業、板前、エッセイスト、本物の刑事、また変わったところでは、元アイドル歌手AV女優
チャリダーや徒歩ダーも来るが、すこし寄り道になるのでかわいそうな気もする。外人は、ドイツから来た人がいる。

これほんまかいな?

プラグポイントの会員の中に、世界的有名人や芸能人が多くいる。 
まずはあの元F1レーサーの中嶋悟だ。そして世界でも有名な競輪王の中野浩一、俳優では桃太郎侍の高橋秀樹、歌手では和田アキ子、タレントでは関根つとむ・・・・・・とメンバーはすばらしい。
こんな人が来たのだから、プラグポイントもなかなかのものだと自負する。けど、実はすべて同姓同名である。世界は広いようで狭いものだなーと思う。 
本当に来たといえば、シェルパ斉藤ぐらいかな。 
来国してくれた人とはできるだけ多くを語ろう思っている。いろいろ面白い話を聞かせてくれるからだ。ここでプラグポイントの名物人間を紹介しよう!

最多来国者、埼玉の関根君。建国以来毎年必ず来る。特に自走の正月の毎年はすごい。雪の中でもやってくる。本当に、すごい、頭が下がる。

なにか観音菩薩のような雰囲気を持っているマリリン。マリリンは何処に、会いたい!

自称元アイドルの後藤久美ちゃん。一字違いで大違い。痩せていたら本当にかわいいんだから。今は一児の母。通称肉丸子ちゃん。

これまた自称現役のAV女優、京都の友子ちゃん。どこかでお目にかかりましたね。

新婚旅行の初夜に泊まってくれた香川の焼き鳥屋のにーちゃんと、べっぴんさんの奥さん、安西夫妻。

愛車XR600の修理の為二ヶ月滞在し、見まわりのお巡りさんとしっかりお友達になってしまった。ムツゴローさんこと大内君。

女の子の泊り客がいると電話すれば、熊本からすっ飛んでくる大ホテルのお坊ちゃまこと、 国米君

34Km/hオーバーのスピード違反でつかまり、3万円の罰金のためにアルバイトし、ついでに彼氏まで見つけてしまった、横浜の忍ちゃん。

温泉大好き人間。一日十数件の温泉をはしごし、最後にぶっ倒れてしまった。三神君

犬をタンクに乗せてツーリングをしている、イキナリ君。

・・・・・・・・・・・・・・思い出したらきりがない。皆楽しい仲間たち

  

バイク王国・プラグポイントの創世の記録・・・2

昨日、引き続いて、掲載します。いよいよ、プラグポイントの誕生です。
お楽しみください。
初めての方は、1より読んでください。

ライダーハウスを作ろう!

 鹿児島に来て、少しの間は都会の雑踏から解放されて田舎気分を味わっていたが、何か心寂しい。       
友達もいないし、言葉もわからない。落ち込む毎日だった。

以前、雑誌で北海道にライダーを泊める民宿みたいなものがあったことを思いだし、これは行って見るしかないと、’88年の8月末から9月にかけて、北海道のライダーハウス巡りを始めた。 
小樽から時計周りに色々見て回った。動かなくなったバスで作ったもの、使わなくなった倉庫を利用したもの、 集会用のテントまであった。
あるところは食堂あったり、あるいは喫茶店、銭湯まであり、さまざまであった。

 北海道にないものを作ろう!スタッフを雑誌で募集したところ、近くの高校生4人(宇留島、川崎、大簿、宮原君)が名乗り出てくれた。
幸いにも、おばーちゃんの家があった。もう10年以上も人が住んでいない。最初は行ったときは、荒れ放題。猫、ネズミ、ゴキブリ達の遊び場になっていた。俗に言う猫屋敷である。
その家は、築50年以上経っていると思われるが、柱がしっかりしている分だけ大丈夫だ。
なんとなく田舎の家という感じで落ち着くことができる。

 家具はそのままである。必要なものと不必要なものを分け、とりあえずすべての家具を外に出し、水で家の中を洗い流す。10年間のほこりが一気に流れ出る。
それから数週間乾かし、次に障子張りをする。昔の家なので数が多く、毎日せっせ1枚づつ貼っていく。
家の回りや家具を片付け、畳を入れ替え終わったときには、すでに3ヶ月が経っていた。

’89年の正月、やっとその家は住めるようになった。いよいよライダーハウスの誕生である。


 
DT200Rにてレースに参戦している国王

名前の由来 

 何とか形はできたものの、名前がない。依然勤めていた会社のバイク大好き人間で、Z2に乗っている塩塚君に依頼し、ライダーハウスの名称を「プラグポイント」に、さらにマークを決めてもらった。 
プラグポイントのプラグは、バイクの心臓であり、一発の火花からエンジンが回り、走ることができる。プラグがなければエンジンもかからないし、走ることもできないというわけで、元気よく火花を散らしていくようにと。 
 ポイントは、位置とか場所という意味で、こんな南の果てだけれど、ここから日本中、世界中にライダーの輪ができれば……と、付けてくれた名前である。バイク王国は、ライダーハウスだけでなく、もっと広く、大きな活動をするということで名付けた。

天国からの手紙

 着々と準備が進んでいた11月のこと。静岡の野村亘さんから一通の封書が届いた。
何やら、手紙が同封してある。それは、北海道の帯広からプラグポイントの手紙で、差出人は野村直毅君。
どうやらお兄さんが送ってくれたようだ。そのお兄さんが書いたメモを読んで驚いた。
直毅君は北海道の大学に入りバイクライフを楽しんでいたが、ある日、友達の車に同乗していて事故に遭い、他界したというのだ。
事故の連絡を受けたお兄さんが、直毅君の部屋に駆けつけると、机の上にこの手紙があったらしい。 いくら他界した弟の手紙といえ、開封することもできず、プラグポイント宛に送られてきたものであった。

 さっそく直毅君からの手紙を開けてみると、「スタッフとして応援したいので、夏になったらプラグポイントへ行きたい」という内容のものであった。
彼は亡くなる前日の土曜日に書き、日曜日は郵便局が開いていなく切手が貼れないので、月曜日に出そうとしていたのだと思われる。
まさしく天国からの手紙だ。読んでいくうちに、思わず涙がこぼれそうになる。「これは絶対に開国しなければ。天国から応援してくれる直毅君に申し訳ない」・…開国に向けていっそう力を入れていった。

 一年ほど経って、お兄さんが直毅君の位牌を持ってプラグポイントを訪ねてくれたとき、こんな話をしてくれた。 
実は、直毅君は大学にも行かずバイクで北海道を走り回っていたらしく、真面目なお兄さんには、弟の気持ちが理解できなかったけど、見知らぬライダーから、たくさんの手紙や墓参りを受けたという。
「弟は、短かったけれど、いかに多くの友をもち、素晴らしい人生を送ったか、よくわかった。」と話してくれた。
「直毅君の遺志を継がなければ・・・」 と、心で誓った。

開国に向けて・・・・・・

 年が明け、’89年の正月を迎えた。開国を5月3日と決め、バイク雑誌に案内を出してもらうように、各編集部に原稿を送る。
また、バイク王国のパスポートの作成準備を始める。パスポートは、バイク王国の国民であるという証明で、本物そっくりに作った。

ライダーハウスの間取りは、入り口を入るとまず、取調べをされるような机と椅子がある。ここで入国審査を受ける。
左に物置があり、その奥に炊事場と冷蔵庫2台。右側は4畳半と6畳の部屋がある。
4畳半の部屋にはテレビ、6畳の部屋には囲炉裏がある。その囲炉裏はいまでも現役だ。
その奥に4畳半の奥の間(女性専門)納屋、トイレがある。
全部屋畳敷きで、テレビ、冷蔵庫、洗濯機など、生活道具はすべてそろっている。

3月になり、ライダーハウスが完成。これで受入体制OKと思っていた矢先、いきなり旅人が。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「あれ?まだPRもしていないのに。どうして知ったの?」 と聞くと「バイク雑誌に載っていた」とのこと。
4月発売号に載せる予定が1号早く載ってしまったようだ。めでたく第1号は鈴川君であった。
ところが同じ日にもう一人ライダーが到着。何とか受け入れるが、パスポートもないし、金額も決めていない。どうしよう。
「いくらですか」の質問に、「300円です」と答えてしまった。温泉代250円とハウス代50円である。
その日は記念すべき第1号という事もあって、夜遅くまで話が弾む。
そうしているうちに毎日2~3人のライダー達がやって来て、楽しくにぎやかになる。

パスポートも出来上がったので、応援してくれた人たちを招いて、建国際を5月3日に行った。
色々なメーカーさん、バイク屋さん、高校生の諸君、親父さん、近所のおばさん、・……。  

 「皆さん本当にありがとう」という気持ちでついに建国。 

                              

  
第1号になった鈴川君です。

・・・・と言う訳で、初期のライダーハウス バイク王国・プラグポイントが開国しました。

今日はここまでです。

次回は、プラグポイントで起こった色々な出来事を載せていきます。

お楽しみに・・・・。
  

バイク王国・プラグポイントの創世の記録・・・1

1989年に建国したプラグポイントのルーツを昔のHPから抜粋してみました。

バイク王国プラグポイント物語

 誰もが大なり小なり夢を持っている。
高校のとき、友達と約束した夢を50年経ったいまでも果たせないでいる。
そんな夢とは、バイクでオーストラリアの一番南のアデレードから一番北のダーウィンまで延びる道を、ただ走りたいだけである。
そんな思いがあるからバイクはやめられない。
誰もが果たしたい夢がある。
その夢に向かって、ひたすら走り続けていくしかない。 
そこにバイクがある限りー。

夢を追いかけて

バイク大好き

よく聞かれる。どうしてライダーハウスを作ったのかと。

いつも答える。ただバイクが好きだからと。

バイクが好きーもう遠い昔の話になるが、高校のころ、いまではレトロバイクのホンダ CL90というバイクに乗っていた。バイクは色々なところに連れていってくれた。

 それは、未知の世界へ旅すようで、わくわくさせてくれた。友達とスクラップを集め、モトクロスバイク?を造り、レースごっこして遊んでいた。

 高校を卒業し、大阪に就職する。バイクに乗る機会がなくなるが、いつも思いはあった。
エンジン音やオイルの焼ける臭いがたまらなく好きだった。雑誌は毎月買ってみていた。いつかきっとバイクに乗ってやるという思いで・…。

  仕事の関係から、やっと暇ができたのはなんと35歳を超えてからだ。
よし、乗ってやるとバイクやさんで買ったバイクは、高校のころ乗っていたCL90と同じ位の程度のホンダMTX200R。
アライのヘルメットを手に入れ、昔とったなんとやら、これくらいなら乗れるさ、軽くスロットルを開けると、200CCのパワーは、いきなりウィリーしそうになってびびってしまった。

 30Kmの道程を、3時間かけてやっと家までたどり着く。それだけで冷汗混じりの汗をどっとかいてしまった。  
 「なんて恐ろしいものを買ってしまったのだろう」と、思ったが後の祭。大枚15万円を出して買ったものを返すわけにいかず、恐る恐る林道に繰り出すようになった。  

MTX200に乗って友達と林道ツーリング

   
恐怖のショッカーとの出会い

 林道を一人走っていたが、なんとなく面白くない。限界もある。誰かいっしょに走ってくれる人はいないかと、雑誌を見ていると、オフロードクラブショッカーが会員を募集していた。
これしかないと思い、入会する。 が、これがなんと林道を走ることよりも、獣道や登山道を好んで走るショッカーだったのだ。
楽しんで走るというよりも、命がけで走るという感じ。
バイクはボロボロになり、週明けにはいつもパーツを注文し、修理の連続であった。おかげでメンテナンスも覚えていった。

えぐい所、吐きそうになるところ、恐ろしいところ。でも面白い、最高! 
友達が増える。それも下は高校生から上はおっちゃんまで。といっても、自分は一番上に近かったけれど.、皆若い。「年など関係あらへんは」と思い、獣道や登山道を走りまくった。
そのときは、バイクは2台目で最強といわれたDT200Rに替わっていた。レースにも出た。
会社の人間以外の人々と付き合う面白さ。酒飲んでも上司や会社の愚痴や悪口なんて出ない。出るのはバイク、バイク、バイクの話ばかり。
時には女の話も出るけれど、めちゃ楽しかった。

ショッカーの皆さんとツーリング(獣道を出てきたところ)

しかし、そんな楽しいショッカーとも別れ、3年間の都会でのバイクライフにピリオドを打つことになる・・・・・・・・・・。

家庭の都合で大阪をあとにし、家内の実家ある鹿児島の鹿屋へと移り住むことになったのだ。   

・・・・2につづく